欠陥が見える
建築家にとって、図面を描くことは、音楽家が作曲することに近い。
違うのは音楽は何度でも演奏されるが、設計図はほぼ一度限りの演奏で終わることだ。
そのため、生産効率が悪い。
大量生産する商品にもならず、一個限りの「作品」になってしまう。
しかも、一度建てると、30年~50年はもつので、リピート客にもならない。
仕事の効率としてはまことに非効率的な仕事である。
昔はすべて手描きで図面を描いていた。
第二原図というものをコピーして作り、その一部を消して修正するくらいでは効率が上がることはない。消す手間の方が大変だった。
CADが入り、手描きがほぼ全滅した。
設計事務所には必ずあったドラフターや平行定規が消えた。
その分、図面作業の効率が上がったとは言えない。
同じパターンの仕事を繰り返しているなら、話は別だが。
一品生産の設計では常に新しいアイディア、新しい要望、新しい好みと遭遇し、決して同じパターンを繰り返すことにはならない。むしろ、同じパターンにならないためにこそ設計事務所の存在意義がある。
私にとっての図面を描く作業とは、認識作業である。
図面を描きながら、ひとつひとつを認識していく。
これは、実に楽しい。
なぜなら、見えてくるからだ。
見えない人にはどんなに図面をにらめっこしても見えない。
一体何が見えてくるかというと、「納まり」である。
うまく納まっているか、無理があるかが見えてくる。
「納まり」というのは、建築用語である。
部材同士の関係であり、3次元的な絡み方を表現している。
たとえば、10cmの幅の隙間に、10cmの部材は入らない。それを「納まらない」という。
まったくの隙間なく、同サイズのものがぴったりと入るということは建築のスケールでは考えられないのだ。
そこに必ず、誤差の許容範囲や、施工上の余裕が必要である。
その余裕のことを、「あそび」という。
遊びのない人間は堅物で面白みがないのと同じように、遊びのない建築は施工者を泣かせる。
その余裕代というものを、そのまま見せてしまうと、見苦しい。それで、その部分をうまく処理するのが、納まりであり、ディテールというわけだ。
昨今の建築は、ノンディテールであることをカッコいいと考える節がある。
面一(つらいち)で納める。つまり、出入りがなく、平らに納める。見切り無しで納めるなど、シンプルさを好む。
しかし、建物は決して動かないわけではない。
夏と冬では膨張、収縮し、乾燥度に合わせて伸び縮みし、風に揺れ、地震に揺れる。
常に動いているのだ。
いくつかひどい建築を見た。
床暖房を入れた無垢のフローリングが熱と湿気で伸びてせりあがったもの。
やはり床だが、コンクリートの床に塩ビシートを張ったものの上に、後からフローリングを張り、浮き上がったもの。
木製の梁を金物で補強してつなぎ合わせた結果、後で木が痩せ(収縮し)梁が7cmもたわみ、屋根がたわんだもの。
部材の性質がわからず、遊びのない納まりで進めると、そういう現象が起こる。
部材の条件が変わった場合、その条件に応じて、様々な部位のディテールを描いておかないと、現場で混乱する。あるいは、そのまま造り、後でその弊害に苦しむ。
ある部分の断面のディテールを描くと、それでは水が浸入してしまうと気づく。何らかの防水処理が必要だと気づく。
しかし、その部分のディテールを描かずに処理を見逃してしまうと、欠陥のある建物になる。誰かが気づいてくれればいいが、気づかないまま施工すれば、欠陥のまま建物はできる。
そう、それでも建物はできてしまうところが怖いのだ。
納まっていないのに、納まった風にできてしまうのだ。
それがあとあと、建物寿命を縮める原因となったり、冷気を招いてしまうような寒い家になったり、建物が変形するのだ。
それらを総称して欠陥住宅などというが、その欠陥は「手を抜いて」欠陥を招くのではない。「認識が不足」して結果的に欠陥が生じるのだ。
図面を描くことは認識することだと書いた。
認識すれば見えてくる。
何が見えてくるかといえば、納まっていない、つまり欠陥があるということが見えるのだ。
それに対して対策を講じる。
結果、図面上、納まる。
納まった建築は限りなく欠陥が少ない
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