心を籠める
同じ仕事をしても、心の籠った仕事か、心のない仕事かで、仕事の質や意味変わってしまいます。
心を籠めるということはどういうことなのでしょう?
愛という文字について、保江邦夫 先生の講演を聞いて、なるほどと思いました。
冠の上にあるのは「手」です。
下の「夂」も「手」です。
「冠」は「舟」を表すのだそうです。
当時の船はとても大切な移動手段であり、海を渡るためには傾いたり、浸水が許されません。
大変な技術を駆使して造りあげていったことでしょう。
その船を下の「夂」の手で造り、上の手で、受け取って使いこなします。
つまり、船の造り手から、使い手へ船が渡されていく様を表していたのです。
そして、その舟である冠の下に「心」があります。
つまり、命を守る船を、心を籠めて造り、心を宿すのです。それを心を籠めて使いこなすということです。
それが「愛」なのです。
この話を聞いて、私は感動しました。
愛のない建築は、様々な欠陥があって、それが次第に現象として表れてきて、住む人、使う人に迷惑が及んでいきます。
愛のある建築は、しっかりと住む人を守り、住む人にも愛され、きちんと維持管理され、美しい状態が保たれます。
人が住まなくなった家は、途端に朽ち果てはじめ、窓ガラスが割れ、屋根が落ちて、雨が入り、土台を腐らせていきます。
どんな古い家でも、ボロ屋でも、人が住んでいれば、それほどひどくはなりません。
家は人の「気」が入ることで、生命を得ていると私は考えます。
「気」を入れる一番の方法は掃除です。掃除し、手を掛けることで、気が巡り、気が流れます。
人が住んでいても、空き部屋となって人が出入りしなくなると、気が淀んでしまいます。
空いている空間には、肉体を失っても、霊的にあの世に行けない浮遊霊、アストラル体が、棲みついてしまいます。
肉体を失っても、屋根の下の方が落ち着くので、人混みを避けて、寂しいところで落ち着こうするようです。淀んだ気の空間には、浮遊霊が棲みついてしまうのです。
それは、ある意味では空いた空虚な空間には、建物自体が浮遊霊でもいいから、何か気を入れたい、心を入れたいと思うからかもしれません。
そんな意味も込めて、建物には心を充満し、気を流す、気を回すようにしていくことで健全に保たれると同時に、浮遊霊に入る隙間を与えないことになると考えます。
ところがどうでしょうか?
本当に自分の思うような建築ができて、喜んで住んでいる状態では気が満ちています。
しかし、建てたものの、あるいは買ったものの、住んでみたらいろいろと気に入らないことが出てきて、建物に満足できないとき、人は建物に興味を失い、そこでの生活を苦痛に感じ、ローンを支払うことも苦痛になってしまうのではないでしょうか?
それでは気が病んでしまい、人も建物も病気になってしまうでしょう。
その空虚に、浮遊霊が棲みついてしまうかもしれません。
そう考えると、建物に心を籠めて設計し、心を籠めて施工し、心を籠めてそれを受け取り、心を籠めて住むという、一連の中に、「心がある」かどうかはとても大切な要素となるのではないでしょうか。
私には建物を見ると、そこに心があるか、心が不在かが、なんとなくわかるような気がします。
余談ですが、
私の父は船大工でした。
そして、私の息子は航海士です。
まさに私の親は船を造る人、
私の息子は船を使う人です。
その間に私が居て、いつも「愛」をテーマにしているのです。
私も船ではなく、家を設計しています。
建築に40年係わってきました。
その結果、やはり建築には「愛」が必要だと、強く実感するようになりました。
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